やあ。船橋市民のメイツたち。
参勤交代に興味はあるかい?
今の世の中に参勤交代制度が残っていたら
各都道府県自慢の参勤交代専用列車が通過したり、
参勤交代専用のバスなり車なりが首都高をにぎわせたりと、
それはそれで見ものなんじゃないかと思う
町の情報屋F(エフ)だ。
まあ、政治形態そのものが違うの夢物語だが、
各自治体が「ご当地モノ」に力を入れている昨今なので、
「ご当地対抗参勤交代リレー」なんてのがあってもいいかもしれない。
おっと、くだらない妄言はこの辺までにしようか。
続きを聞きたければ今晩海老川のほとりにおいで。
さあ、今日のジモバナは歴史について語ってみよう。
…歴史ならこの前語ったじゃないかって?
そう、よく覚えていたね。
以前「市の指定文化財」を話題を出した時に、
「徳川家康」について語ったと思う。
今回は「船橋」と「徳川家康」にゆかりのある場所を紹介しよう。
この「船橋の民話」を読み解いてゆくと、
家康が東金へ鷹狩りへ行く話がいくつか出てくる。
当時、家康公が江戸から東金の御狩り場へ行くには、
江戸湾から船橋湾までは海路を使っていたそうだ。
街道筋を行くよりは、海路を使った方が便利だったんだね。
船橋からは「東金御成街道」という街道を使って
東金まで行くのだが、もちろん日帰りなんてもってのほか。
海路だけでも時間が掛かる為、
船橋あたりで休憩を取るのがちょうど良かったらしい。
そこで「家康公の休息所が必要」という事で、
「船橋御殿」という宿泊施設が建てられたそうだ。
家康公もこの御殿をいたくお気に召し、
近隣の住民たちと交流を持つことを楽しみにしていたとも言われている。
家康公のハートをがっちりつかむなんて
当時のメイツたちが家康公に対し
いかに心をこめて「おもてなし」したか分かるね。
家康公亡きあと、三代将軍家光公ぐらいまで
「船橋御殿」を使っていたそうだが、
その後は鷹狩りが禁止されてしまったこともあり、
「船橋御殿」はそのお役目を終えたかに思われた。
しかし、家康公を思う船橋メイツの心意気だけは残っていて
「船橋御殿」の跡地に「東照宮」を建立し、
大好きだった家康公を未来永劫奉る事としたそうだ。
こちらが1612年頃に
当時の船橋大神宮宮司の「富氏」が建立した「船橋東照宮」
本町通りから一本東寄りの通りの住宅地にあるが、
当時は海老川が海にそそぐ地点であったため、
オーシャンビューの絶景お宿だったのではと考えられる。
もちろん、私の勝手な考えだがね。
ちなみに「東照宮」とは、死後に「東照大権現」となって
徳川将軍家の行く末をみまもるようになった
徳川家康を祀る神社の事で、こちらの「船橋東照宮」は
なんと「日本一小さい東照宮」だそうだ。
確かに日本一小さい東照宮かもしれないが、
家康公と船橋の住民たちのエピソードにふれる度に、
「日本一思いがこもった東照宮」なのかもしれないと感じたよ。
「船橋東照宮」については「まいぷれ」の中にも寄稿があるので
是非目を通して欲しい。
路地裏のさんぽにん
第12回千葉県船橋 京成本線京成船橋駅周辺を歩く!
それではメイツたち、また会おう!